小林秀雄と大学入試問題

自分と戦う人間の数が減れば、それだけ他人と戦う人の数が殖える。

「考えるヒント3」(小林秀雄)の、”ゴッホの病気”から

今年のセンター試験の国語で小林秀雄の随筆が出題され、平均点が過去最低となった原因ではないかと話題になりました。
小林秀雄の文章は、難解、悪文という評価もあり、早稲田の先生などは今回の問題をボロクソに書いてますね。

『わたし自身は高校時代に国語教科書に収録されていた「カヤの平」という随筆を読んだだけで小林秀雄のファンになり、当時文庫で出ていたものはすべて読んだ。高校国語の教科書の編集委員だったときにも、小林秀雄が山崎正和に、さらに中村雄二郎に取って代わられるようになっても、最後まで小林秀雄を収録することを主張したほどである。ただし、「かつてはこれが評論だった」という、文学史上の標本としてである。

小林秀雄の文章にはある種の型があって、「学問」や「現代」を否定しながら、その時代の実用性が美を鍛えたという結論に至るのである。出題された文章も、刀の鐔が美しさを持ったのは美についての思想があったからではなく、実用性の中から自然に生み出されたものだと言っている。ただし、いかなる根拠が示されるわけでもなく、そういう文章の型があるだけだ。その型を知っていれば、設問は難しいものではなかった。しかし、根拠のない文章は好みの押しつけにすぎない。
・・・・・
事実を示した実証にせよ論理的な実証にせよ、ある種の根拠を示されなければ、研究として議論さえできない。大学は好きか嫌いかを押しつけ合う場ではない。』

かなり手厳しいコメントです。

でも小林秀雄の文章には「考えるヒント」になる部分が多々あります。

小林秀雄は”ゴッホの病気”で、芸術作品の個性を、与えられた個人的なもの、偶然的なものを超えた、創造する者の精神のあらわれと述べています。

この精神は、自分のこころとの戦いから得られる豊かな内的経験を表わし、意識がこころを闇の奥底へ閉じ込めてしまった現代人にはもはやないもの。

「自分と戦う人間の数が減れば、それだけ他人と戦う人の数が殖える」

ここ、「考えるヒント」です。

こころが闇の奥底に閉じ込められると、自分と戦う経験ができない。
内的経験を持たない人間が増える。
意識は外の他人へと向く。

このような人間にとってインターネットの掲示板やツイッターは恰好の攻撃道具になります。
生身の人間と戦わなくて済むのですから、自分が物理的に傷付くことはない。
しかし、闇の奥底に閉じ込められた自分のこころはどんどん壊れていく。

いじめ、家庭内暴力などの問題も、ここから来ているのではないでしょうか。

”ゴッホの病気”にはこんなことも書いていあります。

ただ、時代思想というものは、いつの時代のものでも、決して綿密な研究や思索から発したものではない、そういうものを無視しても拡がるものだ、拡がった以上、必ず合理的な仮面をつけるものだ、ということを忘れたくないまでです。
・・・・
私の実感から言えば、ゴッホの絵は、絵というよりも精神と感じられます。私が彼の絵を見るのではなく、向こうに目があって、私が見られている様な感じを、私は持っております。

早稲田の先生のおっしゃる根拠とは、小林秀雄の言う、まさに合理的な仮面に過ぎない。

精神は、豊かな内的経験を持った感受性のある者だけが感じられるのであって、事実として示すことはできない。
しかし、真実ではある。
決して好みの押しつけではない。

小林秀雄は、それを忘れたくないから書き続けたのだと思います。

小林秀雄の随筆は、文章というよりは精神。
それを入試問題にしたのは、確かに間違っていたのかもしれません。

(久々に高校時代に買った単行本のドッグイヤーのページだけ読み返しました)

追記
ゴッホで思い出したこと

昨年オルセー美術館に友人のサミーと行った時、彼女がゴッホの自画像の前で、「ヴァンゴッ、ヴァンゴッ」と言っていたのを、「なんのこっちゃ?」と思っていたら、「なるへそ、ヴァン・ゴッホのことか」と納得。

フランスでは、ミドルネームのヴァンを付けて、ヴァン・ゴッと呼ぶようです。
(それが世界の一般常識なのかもしれませんが・・・)

小林秀雄と大学入試問題」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: こんなつまらない時代だからこそ、小林秀雄アゲイン! – 岬町 風来坊日記

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